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平太郎 と 普照 の問い

2012/1/24

親鸞聖人の絵伝の四幅目に お弟子の平太郎の

熊野詣でのことが描かれていますが、神祇不拝を宗とする

真宗門徒にとっては、いくら公用とはいえ、神様にお参り

するのは抵抗があり、京都にみえる聖人に可否を問います。

もっとも、最近の我ら門徒はあまり抵抗なく神社でも

キリスト教会をお参りするひとが多いような気がします。

私のお寺の お朝事にお参りされている方も寺に来る前に

家で 祝詞 をあげてきているそうです。

また、役僧をしていた若者はキリスト教会で結婚式を

挙げたとも聞きました。

いったい、真宗はどこに行ってしまっているのでしょう?

そんななか、先日長女が

「職場の友人に誘われたので

    伊勢神宮にお参りに行ってもいい?」

と訊いてきました。

父親の私が 神社に一切お参しないのをみていたり、

家にあった神棚を真宗の話を真剣に聞くようになってから

降ろして焼却してしまったことを見聞きしていたので

そんな質問をしてきたのでしょう。

さて、私の回答は

「お付き合いで行くのはいいけど 

     真宗門徒は 神さんは 要らんのよ!!」

でした。だって親鸞聖人は

「雑行を棄てて 本願に帰す」

と言われているし

曇鸞大師は命懸けで手に入れた 仙経を 

二度と読まないように焼き捨てているのですからね・・

毎日 正信偈 を祝詞と同じように呪文の

ように読んでいるんだろうか?

ちなみに 普照 は長女の法名であります。

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コメント

junさん お久しぶりですね。もっともこちらがご無沙汰しているのですが・・・レスが遅くなり申し訳ありません。
私も伊勢神宮に行くのは良くないとか言うつもりはないのですよ。神社仏閣に行くことを お参りに行く と言いますが、単なる観光地へは お参り という表現はしませんね。信仰の対象として行くことを真宗門徒はしてこなかったということが明治まででしたが、最近はなんの抵抗もなく手を合わせている姿をみると、「何をお願いしているんだろう?」とつい思ってしまうわけです。寝ても覚めても念仏を唱えなさいといわれていますので、私には神様にお参りする余裕はありません。もっとも真宗宗歌にあるように 六字の御名を唱えつつ 世の生業をしているわけでなく、世の生業をしながら 思い出した程度にしか 御名を唱えることしかできてませんけどね。

投稿: 破旬 | 2012年2月25日 (土) 00時03分

伊勢神宮を観光で訪れるのは、別段問題は無いと考えます。磯部町にある伊雑宮と伊勢神宮の関連から、渚の名残として大きな石が回りに置かれているのかと私は好き勝手に連想し楽しんでいます。上代は専門外ですが、神宮は古代朝鮮語であるとする学者がいたり、鳥居はタイの山地の少数民族の習俗だ、いや伊勢神宮は時代と共に次第に川を遡り現在地になったんだと諸説があり、興味本位で訪れることも許されることと思います。名古屋に関係が深い無住法師が伊勢神宮に参籠したとの記録が残されているようです。鎌倉時代から真宗系統以外は抵抗無しに、伊勢参りをしています。近年特に首相の参拝が靖国神社と同様に恒例化しているのは、捨て置けない気がしています。

投稿: jun | 2012年2月 2日 (木) 14時23分

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