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名指しの ご教化

2009/6/1

今日から衣替えであります。中学生の制服がパッっと

明るくなります。

法名を自分の俗名の1文字を入れて選定しない場合は

本山で大無量寿経の言葉の中からの 二文字

を使って決められる(大谷派の場合)

私の場合は 阿弥陀仏の建てられた 四十八願の

     第四十願

から、宝樹 と名付けていただいたそうである。

観無量寿経で釈尊の説かれる 第四の観 

     宝樹観

とも云える。この法名の宝樹について、雅楽について

教えていただいた、名古屋の A師 よりメ-ルで

特別にご教示をいただいた。教典を読むと この

宝樹は良いイメ-ジの記述ばかりですが。

樹・林 というのは 教えの中では 煩悩

を顕しているそうです。狭い空間を生きている

家族は その関係が深く・近いからこそお互いを

傷つけあうことが多いのですが、そこに

清風という 法の風 が吹き渡ることにより

宮商という隣り合った音が 和して

微妙音 と聞き取れるようになると云われます。

師は 清風 を 念仏による対話 と訳されました。

言葉を尽くす宗教である。とも 真宗のことを云われ

ています。

俗名を使用された方は、このような話し合いに

発展できないのが、ザンネンですね。もっとも

名付けの時点で 住職との対話の機会が

与えられるので、それはそれで有意義でもあります。

私の法名 宝樹 が 毎日お勤めする 御和讃に

二箇所出てきますので。その和讃をお勤めされる

時は思い出してください。

そうそう、私がハンドルネ-ムとして使用している、

破旬(大谷派の聖典では 波 と書いてある)ですが

故有って、読む事になった、親鸞聖人の書かれた

   一念多念文意

で見つけました。

「天魔波旬におかされず」

と悪者であります。和讃では

他化天の大魔王

というのが、この 波旬 のことであります。

私の場合は 水 より 硬い  が当たっているので

破旬 で良いのかも。

いずれにしろ、名前という物は それを付けたひとの

願いが表されているわけですので、その意をよくよく

思いながら 生きていたいものであります。

法名の無い方は 是非 生きている今 お受け

下さい。帰敬式を受けるといただけます。

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントさんこんばんは
確かに、変えるということは 西本願寺さんは迅速に対応されますね。女性法名に尼の字をいち早く廃止しました。その他かなりの面で進んでいる点は大谷派門徒として羨ましいことであります。そもそも親鸞聖人の教えを聞く身としては西も東も高田もそのほか7派も同じでして、こだわる必要は無いと思い、宗派を超えて縁も結ばせていただいています。
女性的イメ-ジのある観音菩薩もよく見るとお髭が有ったりして、本来仏は男でしょうか?
でも、ひろさちやさんは 仏性という 性 であると云われていますので、そう思うと在世の男女の違いは
浄土には存在しないのでしょう。
尼の字はいずれ東本願寺でも無くなると思いますよ。
いずれにしろ、法名をもらった身の人が仏弟子としての
自覚をどう持つかが問題でありました。

投稿: 釈破旬 | 2009年6月 5日 (金) 20時06分

これを機会に法名について考える良いきっかけになりました。差別戒名ということが、新聞でも社会問題だと数度報道されました。女性に対し「釈尼○○」と現在も使用しているようですが、死んでも男女の区別があるのは、どうなのかなー。特に最近宗門内でジェンダーの影響か、性の差別(区別の名の下の差別)が叫ばれていると聞いています。ジェンダー流に表現すると、宗門は性差別の再生産拡大機関の役割をしていることになります。
 浄土真宗本願寺派では、現在は「釈尼」の呼称は使用していないことが、判明しました。流石改革の流れが速い、西本願寺だとつくづくと思いました。

投稿: | 2009年6月 5日 (金) 15時36分

junさんこんにちは
了解です。自らの名告りですか・・・
親鸞聖人も いろんな名前を使われていますが、善信と
親鸞は自ら名告られたと思います、名前の中に七高僧の名前の一字が散りばめられていますが、龍樹菩薩の文字だけは使われていませんね。な~んでか?私には解りません。
私の連れ合いの法名は私が選びました。第40願の私の宝樹の少し後に出てくる、照見尼としました。これは
二人ともお浄土に往ったとき迷子にならないように同じ番地に行き着けるようにと思ったのですが、たまに後悔することがあります。では

投稿: 釈破旬 | 2009年6月 4日 (木) 13時02分

コトバ足らずで、誤解を招いたかも知れません。弟の法名は、母の法名と繋がりたい〉という強い本人の希望があり、このようなことになりました。申請時の記入漏れではありません。

投稿: jun | 2009年6月 4日 (木) 08時00分

junさんこんにちは

>戸籍上の名前は、阿弥陀さんから戴いたものですから

なるほど

俗名と法名が同じひとは、お寺さんにおおいですが、弟さんだけ違うと言うのがチョット気になりますね。

私の思いの及ばないところで法名が決まると言うのも
いいものですよ。俗名も本人の承諾無くつけられていますし、つけた人の願いのこもったものであることはどちらも同じ、私の場合は阿弥陀さんの願いが掛けられた名前と了解しています。かなり重くも有りますが。
まあ、名前に近づけるように精進いたしましょう。
仏弟子の増えることを願うばかりであります。

投稿: 釈破旬 | 2009年6月 3日 (水) 08時11分

法名を本山がそのように付けているとは知りませんでした。我が家では、弟を除いて祖父の代から戸籍上の名前=法名という関係です。それはそれで良いと思っています。俗体=法体。分け隔て無いことこそ祖師の考えを反映していると勝手に理解してきました。幼少期はことある毎に、母に言われたのは、「阿弥陀さんの子ですから・・・・・」というコトバが何時も良きにつけ悪しきにつけ言われました。戸籍上の名前は、阿弥陀さんから戴いたものですから、呼び捨てができる字(あざな)で呼ぶのです、とも説明されてきた。それはそれで良いと今では思っています

投稿: jun | 2009年6月 2日 (火) 13時53分

ONSAIさん こんばんは
破旬についてでは有りませんが、蓮如上人御一代記聞書193・・こんなことを云われていたんですね。最近家族で勤める お夕事にご文章の代わりに、これを一つずつ拝読し、原文では拝読者も理解不能なので、本派で出されている現代語訳を併せて読んで、味わうようにしました。現在NO.14です。193までにはまだ半年はかかると思いますが、御縁が有りましたので、今日は193を拝読することにいたします。有り難うございました。
才市さんの法要が近づいて来ましたね、今年は同伴者が入院してしまいましたので、ザンネンであります。
温泉津のお湯は糖尿病にも効果が有るとのことですので又いつかお邪魔いたします。
石にうがつほど聴聞を続けさせていただきます。越前で大人気のONSAIさんのお話もいつかきっと 聞くぞ!!

投稿: 釈破旬 | 2009年6月 1日 (月) 20時21分

自分の生き方に繋がり、映る「法名」は いいですね。

>私の場合は水より硬い石が当たっているので
>破旬 で良いのかも。

そういえば、「水よく石を穿つ」(『蓮如上人御一代記聞書』 193条)

とありますよね。

法水を注がれ包まれて、柔らかくなる「石」のような
破旬さんなんですね。


投稿: ONSAI | 2009年6月 1日 (月) 09時13分

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