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宗祖を呼び捨て ok?

2009/2/6

政治や経済ネタが多くなってしまう、このごろですが

まじめ(?)に宗教を!!

宗祖のご遠忌を間近に控えた、ある宗派のホ-ムペ-ジで

毎週民放ラジオで放送されている、法話が聞けるように

なっています。先日ある方の6週間分の法話を全部聞いた

ところ、どうも不快感を覚えました。宗祖のご遠忌テ-マ

を元に、どの講師もはなされています。当然その方も

テ-マの御自分の受け取りをはなされていたようです。

ほとんど内容を覚えていないのです。理由は以下

話の中に何度も 宗祖の名前が出てきますが、6話

すべて、終始宗祖を呼び捨てしていました。不快感の

原因は この 呼び捨て が耳障りになっていたようです。

私たちの先達たちは、宗祖のことを 聖人とか

ご開山さんと 呼ばれていました。せめて さま とか

さん を付けて呼んで欲しいと思うのです。

後に近くのその派の 住職に

「学術的に話すときは、呼び捨てしてもいいことに

なっている」 と教えていただきました。

    誰が許可したのでしょうか??

まあ、その説を受け入れたとしても、民放のラジオを

聞いている人は 学者先生 ばかりではありません。

その宗派の信者以外の方も聴いているでしょう。

偉い学者先生が 呼び捨てにしている 宗祖 を

果たして 信者が 敬うように育つのであろうか

ひとり心配しているわたしであります。

こんなことを書くと、陰口をたたいていると思われるかも

知れませんが、配信している、本山を通じてこの思いを

ご本人に伝えて貰うようにお願いしましたが、はたして

届いたでありましょうや?当然こちらの住所・氏名は

明示いたしました ハイ

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

その放送を聞いていないので、明確なことは言えませんが、以下一般論を述べます。
①真実を語るためには、淡々と事実を列挙するという記述(話法)があります。
②対象を目の前にしているときは、聞き手の表情や反応を感じ取り、臨機に対応可能です。
③東本願寺の時間ならば、当然出演者は善知識ですから深い信仰心からのコトバと理解されます。
④「蓮如さん」という響きは、耳障りに私は感じます。琵琶湖西岸では「蓮如忌」と称して慣れ親しんでいるにも拘わらず僧職は「蓮如」と呼んでいます。縁の寺々世話人も「蓮如」「蓮如さん」どちらも併存して使用しています。私の叔母などは勿論「レンニョサン」です。「石碑等は「蓮如上人旧跡」「蓮如上人御旧跡」となっています。
⑤岩波古典全書・古典文学大系等も、僧職の方が編集しているが「親鸞集」「親鸞消息」となっており、敬称は付していない。
⑥親や親しい人と話すときは、「シンランサン」「ゴカイサン」「シンランショウニン」「ソシ」「レンニョサン」の語は耳にするが、真宗以外の信者間では多くは定義が必要な語であります。

投稿: | 2009年2月12日 (木) 15時02分

junさんこんにちは、
確かに好みの問題でもありますし、かえって敬称をつけたらマズイ場合もありますね。でも今回のラジオ放送は
東本願寺が門徒全員に向け、2年後の750回忌を迎えるにあたり、そもそも親鸞聖人をちゃんと宗祖として意識して遇って来たのだであろうか?という問いかけをしていて、宗祖として遇って欲しいと言う願いで放送されているものだと私は理解しているのですよ。
学術的な過去のひととして扱ってしまって居るような気がするのです。親鸞聖人は書かれた手紙のなかで、現在進行形の存在であると云われているところも見受けられますね。

投稿: 釈破旬 | 2009年2月12日 (木) 13時43分

「聖人・さん」が付かないことに対する不満は、ある程度好みの問題であると考えます。つまり歴史上の人物を、先入観を排除し客観的に冷静に見つめるとき、敬称は自ずと不要となります。例えば「聖徳太子」に対し尊敬の念を持っていたとしても、歴史的事実を挙げる際に、「聖徳太子様が○○年に△△を制定なされた」とは表現しません。敬称を付した場合と付さない場合とでは、主観性もしくは客観性という付随される感情が第三者に生まれかねない状況を呈します。私は、敬称よりも話の内容から判断し、話し手に対する好悪を決める方です。しかしながら、「親鸞上人」という記述はいかがなものかとは思います。
 身近に感じるために「・・・さん」と呼称するのも相手がどう受け取るか、やはり熟慮する必要性を感じます。時々女性がタレントを「○○さん」と親しみを込めて話題を提供しますが、聞く方は「さん付け」できる相手では無いだろうと不快に受け取る場合もあるのです。
特にマスメデアは聞き手が誰であるのか対象を絞ることは不可能です。立場を異にする相手にも配慮する表現が必要になります。その点を踏まえ放送されたものと判断いたします。

投稿: jun | 2009年2月12日 (木) 11時34分

凡愚さん こんにちは
なまいき盛りのひとは 平気で呼び捨てするのかも知れませんね。わたしが不快に思ったお話をされた方々はいずれもお若い方でした。年を重ねるに従って親鸞聖人にたいする思いが進化してくるのかもしれません。わたしも生意気盛りを通過できたということなのかも知れませんね。感謝しましょう!
それにしても 蓮如さん は さま とか 上人と呼ぶより さん がしっくりきますね。市内に 応仁寺 という無住職の寺があります。蓮如さんが三河地方を教化する拠点とされた寺とのことで、吉崎に行かれたあとも
いつ蓮如さんが帰られてもいいように、住職を置かず
地域の方々が交代で守ってみえます、いまでも
真宗門徒は 篤(熱)いですね

投稿: 釈破旬 | 2009年2月10日 (火) 15時34分

僕も学術的には云々という話聞いたことがあります。でも親鸞とよぶのには生理的に抵抗があります。学生時代はなんとも思ってなかったのですが。
宗祖や御開山、聖人、様、さん確かに呼び方一つで聞いている人に与える印象も変わると思います

投稿: 凡愚 | 2009年2月10日 (火) 10時46分

今宵の月 有り難うございます
賛同者があると心安まります。でもある面心配しているのです。この方は本山の同朋会館の教導という立場にあり膝詰めで門徒の方を教化しているようです、この方のみならず多くの ガクシャ の方が同じ視座で教化していることにこの教団の危うさを感じます。
でも笑い飛ばしましょう!!

投稿: 釈破旬 | 2009年2月 8日 (日) 22時13分

こんにちは
私は他のブログにも書いている様に、唯物論者であり、無神論者を自認しています。

それでも親鸞聖人はちゃんと聖人と書きます。上人と書かれるだけで何となく不愉快になりますし、まして呼び捨てなんて考えられません。

偉そうに言う人は何処にでも居るんですね。
ちゃちな宗教者や宗教学者が何と言っても、親鸞聖人の偉業は不変です。歴史にその名を残す宗祖様を一般の人だってちゃんと解っているとおもいます。

相手から返事があろうが無かろうが、
あなたの大きな心で、笑い飛ばすのも良いかもしれません。
そのほうがストレス溜まりませんよ!

投稿: 今宵の月 | 2009年2月 8日 (日) 14時23分

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