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木魚

2009/1/11

今日は昨年の1月24日に亡くなった友人の

一周忌法要にお参りさせていただいた。

浄土宗の方なので、真宗の年忌法要とは趣がちがいます。

浄土宗も 浄土三部経を拝読されるのかと思って

いたのですが、読まれたお経は

    父母恩重経

というお経で、人間の出生から死までのいろんな

出来事や、親子の関係などを読み込んだお経で

なかなか面白く聞かせていただきました。

そのお経のあとに、全員で三帰依、四誓げ、

一枚起請文などをお勤めしましたが、何せ念仏の

回数が多く、ゆうに100回は超えていたようです。

住職さんが木魚を叩き、延々と念仏が続きました。

なかなか普段自分の口から、念仏はこぼれて来ませんが

今日は、その友人のお陰でまとめて念仏申させて

いただきました。

その方と無二の親友だった女性から、生前彼女は

私の会社(亡くなった方は我が社で長年パ-ト従業員

をしてくれていたのでした)に勤めて、幸せだったと

云われていたと教えて貰いました。反対に我が社の

方が人一倍働き者の従業員のために助けられて

いたという方が正確なのですが。この不況で元気が

でない我が社ですが、一年前に亡くなった方からも

いまだに応援をしていただいているようです。

たいして苦しくもないのに、便乗して人員整理を

平気でしている、どこぞの大会社幹部に聞かせて

やりたいような話でありました。

明日からも ガンバルゾ!!

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

この場をお借りして、jun様に御礼申し上げます。

「神仏が普遍的な存在だとしたら・・・思念した
その過程をも汲み取るもののはず」と言うコメントは、釈 破旬様のそれとは別の意味で納得しうるものです。
心の中で唱えたお念仏を阿弥陀様がうけとめてくださるなら、私の心も安らぎます。

私は他者から、決まりだから、慣習だからと言われて強制されるのが苦手なタチなものですから、どんなによい事でもすぐに実行できないので、親族から
変人扱いされてきました。
そういう意味でも、家猫ではなくmatinekoと自称しています。

投稿: matineko | 2009年1月28日 (水) 11時31分

matinekoさんの「阿弥陀様があまねく衆生を救済して下さるならなにも口に出して念仏を唱えなくても良い様な気がします。それではまずいんでしょうか?」という問いかけは示唆に富んだものと思います。阿弥陀様が見ているのですから、回数等の物理的な問題ではなく、精神の問題に帰結するのは至極当然な結論と思われます。「説話集」たしか『古今著聞集』だったと思いますが、概略このような話です。「若い女房が年頃の娘を連れて、夜通し歩いて石清水八幡宮に参拝し、娘の良縁を祈っていたとき、母を膝枕にし寝ていた娘を母がこんなに祈っているのに当人が寝ているのは親として恥ずかしいとたしなめた母に対し、娘は和歌で私が言葉に出さずとも心の中を神はお見通しだと口答えし、母が絶句したが、その参拝の帰途、娘は殿上人に見初められそのまま結婚し、幸福な生涯を送った」という話です。仏神が普遍的な存在だとしたら、体外に発した言葉ではなく、思念したその過程をも汲み取るもののはずであり、言葉の裏にある「思い」をも即座に量りし得るはずであるから、matinekoさんの疑問は疑問として成立します。また、昔から信仰する者に疑問として存在していた言葉であることを今一度考える機会が与えられました。少々長くなりましたがお許し下さい。何時も休憩時間に投稿しているので乱文もまたお許し下さい。

投稿: jun | 2009年1月21日 (水) 14時57分

私のつまらない投稿から
沢山のコメントを戴きまして
有難うございます

難しいことは判りませんが
「シカトすんなよ!」という表現が
ユニークで、しかもナットク!!

我が家の法事も20名以上いたのに
皆、口の中でモゴモゴ念仏の状態
本堂に響いたのは、ご住職の声だけでした。

投稿: matineko | 2009年1月18日 (日) 17時15分

念仏の回数について、いろんな方からコメントをいただきました。
私もただ回数が多い方がいいと思っているわけではないのですが、私の場合は日々お念仏をしていると、何となく口に馴染んでくるようにおもえています。ただの一回でも心底お念仏すればそれでいいのでしょうが、なかなか心底念仏できないでいます。
私の本山・東本願寺にお参りにいっても念仏の声があまり聞こえて来ません、報恩講などは沢山の人が阿弥陀堂にみえますが、その人一人が一回念仏を口から出せばお堂の中は念仏の声で一杯になるはずなんですが、一度もお念仏しないひとがいるようです、ゼロではやはり始まりませんね。無理矢理口を開かせることはできませんので、日頃の家庭や寺での念仏のお稽古から始めないと
いけませんね。
阿弥陀さんの方からは不断に念仏の声で呼びかけられているそうですので、それに応えないのは失礼かとおもいます。子供たちにいわせると「シカトすんなよ!」ということになるのでしょう。

投稿: 釈破旬 | 2009年1月17日 (土) 20時30分

仏教については上辺のみの理解で、言葉の遊びかも知れませんが、一応知り得る範囲で書きます。
親鸞聖人の著作に「一念多念文意」というものがあります。また「一念多念証文」という著作もあるそうです。「一念をひがごととおもふまじき事」「多念をひがごととおもふまじき事」「浄土真宗のならひには、念仏往生とまふすなり、またく一念往生・多念往生とまふすことなし、これにてしらせたまふべし。」と述べられているそうです。親鸞在世時から「一念・多念」は並立していたようですね。どちらにしても自ら信じる方で実践したら良いと思います。私は親の言いつけ通り、ナマンダブ(ツ)と数回つぶやきの状態で口で称えています。

投稿: | 2009年1月17日 (土) 15時17分

十念について思いつく事を簡単に記します。
『平家物語』の入水のシーンでは、西に向かって十念をすることがほとんどです。また平家「戒文」では法然が平重衛に十念を唱えるように促していたと記憶しています。当然のことながら『平家物語』に登場する法然は、法然その人と決定することは危険ですが、法然の死後、法然教団(私は西山派と考えています)の信仰の形態を示しているものと考えることはできます。この十念は平安末期に登場した多くの「往生伝」にも表れる語です。どうも念仏は「十回」という作法が儀礼化していたようです。
 記憶のみで検証はしていませんので、その点はご了承ください。

投稿: jun | 2009年1月17日 (土) 13時00分

釈様 アドバイス有難うございます

10回念仏がお経に書いてあるとは知りませんでした。勉強になりました。
心臓の鼓動のたとえ、とてもいいですね
私もそう考えられたらいいなと思いますが
不信心者はなかなか変われないのが
現実です。

投稿: matineko | 2009年1月14日 (水) 14時50分

matinekoさん こんにちは
実は私も少し前までは念仏を唱えるのが嫌でしかたなかったのですよ。
私の真宗大谷派は念仏教団と云われていますが、念仏を唱えるひとは残念ながら、あまりいないように思えます。仏壇(内仏)や寺にお参りしてする念仏だけでなく
少し前の門徒さんは、日常ことあるごとにお念仏を口に
されていたようです。
浄土宗の方が10回のお念仏を強要されるのは、お経に阿弥陀様が生き物すべてを救いたいと思われ、山に入り戒律を守り修行することができない私たちのような人間はせめて10回でも私の名前を呼んでくださいと云われた、
とお経に書いてあるからですね。
我が母親のように言葉を失った人間は念仏を口にすることはできません、法然上人は一日6万回念仏を唱えられたと云われていますが、少し無理があるように思えます、でも、私は心臓が鼓動として動いてくれているのが一日6万回くらいですので、心臓が私の思いに代わって念仏してくれていると思うようにしているのです。
口から出すのは自分がしたいときにすればいいと思います、でも念仏を喜べるようになると何かが変わるような
きもしますので、無理をせずにご精進ください。

投稿: 釈破旬 | 2009年1月13日 (火) 13時48分

こんにちはmatinekoです
「木魚」拝見いたしました
我が家の宗旨は浄土宗です。必ず10回はお念仏を唱えます
でも私にはそれが苦痛で堪りません。
自分の信念に反しているから
といってしまえばそれまでですが・・・
何だかS学会と同じ様な気がしてしまうんです

阿弥陀様があまねく衆生を救済して下さるなら
なにも口に出して念仏を唱えなくても良い様な気がします。それではまずいんでしょうか?

普段宗教色のない生活をしているから、法事の度に何となく気になります
とはいえ、自社のパートさんの一周忌法要に態々ご参列とは、さすがですね。


投稿: matineko | 2009年1月12日 (月) 10時32分

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