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履き物をそろえる

2008/11/12

昨晩の夕事勤行の際に、またもや息子の 

孝善(きょうぜん・・俗名孝士)くんに仏間の入り口で

脱いだ履き物を揃えるように注意されてしまった。

4~5回に一回は注意されます。

彼は子供のころに住んでいた鷲塚の 蓮成寺住職

青木馨師に再三教えられ、履き物を揃えることが

身に付いているようです。but 玄関では靴を揃えて

いないので、仏間や本堂に入るときは と理解して

いるようです。それすらちゃんとできない情けない

父親の方が問題でありますが・・

昨晩のお勤め後の プチ輪読会は

善鸞義絶の段でした。何巡かしたので、ただ読むだけ

でなく、質問や話し合いが少しできるようになりました。

日蓮上人が登場しましたので。鎌倉時代には有名な

お坊さんが沢山いたことや、日蓮上人が辻説法をして

「念仏など申していると、無間地獄に落ちるぞ!!」

念仏している人を惑わしたことなど、雑談ができました。

   躾は子供のうちに

   仏法は若きとき 

にたしなまねばいけませんね。

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コメント

「念仏は手で受け取る」に対する私の了解は、心で理解するのではなく、つまり観念ではなく、生活の中で実感し、実践することが伴っていなければ念仏として意味をなさない。「手」は実生活そのものであり、(文学的に「手」とはその人の境遇や過去の実生活を暗示させるための表現としてしばしばし現れる常套手段)。観念として子供に教えることは父は良しとしなかっのではないかと今は理解しています。父は私の性格を知っており、理屈ではないぞということを伝えたかったのかも知れない。だから、多くの人の目に触れるように毎年掛けていたのかも知れぬ。私も多くの人の中の一人である。
 妻には、いつも凡夫の中の凡夫では困りますと叱られる毎日ですが。

投稿: jun | 2008年11月21日 (金) 16時11分

junさん こんばんは
いつもコメント有り難うございます。
私的に解釈すると
贈り物はものですので手渡し(最近は宅急便が多いけど)で渡され、私は手で受け取りますが、心から有り難うございますという心で受け取るのですよ、一方お念仏は ナムアミダブツという言葉ですので耳で受け取りますが(名号の場合は目ですが)実態は形もなく色も香りもない働きですが、ちゃんと漏らさないように両手をあわせて(合掌)受け取らなければ駄目ですよ。と書かれた方が言われているのでは無いでしょうかね???
私なりに有り難くこのコメントをいただかせていただきます。

投稿: 釈破旬 | 2008年11月13日 (木) 21時03分

中学1年の頃、掛軸の字が読めず、父に聞いたところ「贈り物は心で受け、念仏は手で受ける」と書いてある。それだけで軸の意味することはどういうことかという説明はなかった。毎年季節になるとその軸は座敷にかかっていた。父の死んだ後も、兄は季節が巡ってくるとかけているのかは不明である。

投稿: jun | 2008年11月13日 (木) 11時08分

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